転居日誌(9):売れてしまった

思い出してほしい。S不動産の営業マンMさんとは既に2年半に及ぶやり取りがあったことは前にも触れた通りだ。さり気ない「サ高住の方の進展はありましたか?」「変わりはないですか?」などの会話から色んな情報を感じ取っていたのではないだろうか?こちらも「一体この家はどのくらいの値段なら売れるのだろうか?」という疑問をいつも持っていたのでその辺りの情報を欲しがっていた。だから、今回の場合でも売買のギャップが左程ではないことを暗に教えてくれ、後押しをしてくれた。それがなかったらこれほどスムースには行かなかっただろうと思う。そして11月13日には売買契約を取り交わしてしまったのだ。話が始まってから約20日だった。そして新居への入居は12月1日以降。八王子の家の明け渡しは12月7日と決まった。八王子の家は新年までには取り壊したいという。なぜそんなに明け渡しを急ぐのかと問うと新年を跨ぐと新たに家屋への固定資産税が発生し、お金の面、手続きの面で面倒というのだった。成る程、大した額ではないだろうが・・・一々口を挟むことでもないような気がしてそれに合わせた転居計画を立てることにした。最初に決めたことは引越し日を4日にし、5,6の2日間で家をキレイにして7日に引き渡すというものだった。息子たちの手伝い休暇の日程を主体にして決めた。息子たちの協力がなかったら家財の整理はとても間に合わなかったのではないだろうか?一軒屋というものが如何に多くの収納場所を持っているものなのか、ひと言で「断捨離」というけれど、本当に断捨離というのが大事業だということが今回、身にしみた。色んな人の協力を貰ったことを記憶しておきたい。残していく庭木や草花の幾つかを引き取ってくれた息子や友人たちのことも記憶に留めておきたい。入居したのが昭和51年(1976年)だから41年間住み慣れた家だった。通い慣れた道、町並み、顔なじみの近隣の人達、四季折々の自然の変化、鶯の鳴き始めを毎年聞き取る春を待つ感覚・・・最後の1週間、スケジュールに追われながらのチョットした隙間に寂しさの感覚が忍び込んでくる。それは息子たちにも同じだったようだ。息子達にとっては物心がついた時からの家、ふるさとの家だから感覚的には自分よりも、より感傷的に感じる面もあったようだ。時間はどんどん過ぎて行き、大きな紙に書いた引越しカレンダーが1行1行消し込まれていった。


転居日誌(8):マンションの下見から有力候補の絞り込み

何と翌日には30近い物件の情報を持って来てくれました。しかし、こちらもネットで十分研究していたこと、30数件の物件の中にそれらの物件が多数含まれていたこと、駅からの距離が10分以上のものを省き、3LDKなど60㎡以上のものを省くと残ったのは8件ほどだった。そこから間取り、ロケーションを考えて絞り込むと4件ほどになってしまった。これを下見したいというと、すぐに電話で手配をしてくれて翌日にはその4件をぐるっと見て回ると、好感のもてるものは2件だった。そして結局はそのうちの1件に決めたのだからそのスピードには自分も呆れるほどだった。偶々、その下見の夜は新宿で2人の息子たちと飲み会を計画していたので、早速状況を話した。これまで2年以上何の進展もなかったので急な話には相当ビックリしていた様子だったが、八王子の家、土地を生かした彼らの将来設計というのは殆んど考えられないということは疑いようもないものだったので、結局は「お父さんが良いと思うなら良いのでは・・?」という以外の意見は出ず仕舞いで終った。
問題はここからである。今住んでいる家を売却しなければこの話は前には進まないのだ。


転居日誌(7):世論調査

色んなマンションの売り物件、それはそれは沢山ありました。マンションが嫌になったのか、何かの理由で住んでいたマンションから脱出を図る人が多いのか、理由は知る由もありません。でもたくさん物件を見ていると、何となく良さそうかなというのとそうでないのとはあるものです。また、同じ2DKでも気に入った間取りのものそうでない物などがあり好みがあるということがはっきりしてきました。
10月、同窓会の季節でした。久し振りに金沢で大学時代の同窓会があり自分も幹事団の一員でもあり当然、出席しました。金沢は相変わらずの新幹線ブームが続いていて、以前とは打って変わった観光客で駅はごった返していました。それは置いておいて・・・同窓会はよもやま話や2分間スピーチなどあり、2次会も同じ旅館内ですから寛いだ一夜でした。その時に同級生に聞いてみました。実はこういうことを考えているのだがどう思う?帰ってきた答えは殆どが否定的なものばかりでした。「おまえ、何歳になったかよく考えろ!」、「この歳になって環境を変えて碌なことは起きないよ!」、「認知症を発症するぞ!」・・・散々でした。中には既に「サ高住」(それも八王子で)に入居した人もいて、「サ高住」の便利の良さをすごく具体的に説明してくれました。うーん、みんな一理ある。だけど・・・・。家に帰って今度は絵の仲間やテニスの仲間にそれとなく聞いてみた。すると反応が同級生の反応と相当に違う?今付き合っている仲間は若いからなのかな?あながちそうとも言えないが皆活発にアクティブに老後の時間を使っている点が少し違うのではないかと感じた。そんな折も折、件の不動産屋さんから定期便の電話が入ってきた。「最近どうですか?何か動きはありますか?」に対して「実は考えが少し変わってきていましてね。サ高住は止めて普通の中古マンションに移ろうかと思ったりしているんですよ」と答えた。話が急展開し始めた瞬間だった。


転居日誌(6):やっぱり「サ高住」より普通の「マンション」だ!

最初に「サ高住」の見学に行ってから1年半ほどが過ぎたが、やはり音沙汰がない。その後も他の「サ高住」を見学に行ったりしてみたがピンと来るものがない。やっぱり今の住処を直しながら頑張るしかないか?と思い直し始めた時、ある友人から、自分の友人(同級生)がやはり伴侶に先立たれ、戸建てからマンションに移ったという話を聞かされた。そういえば同じような例が自分の知人にもいたぞ、と思い出した。そういう選択肢もあるかもしれない。であれば少なくとも間取りの選択肢はいくらでもあるではないか!健康に不安がない今、無理に先々を考えた「サ高住」に固執することの方に無理があるのだ。自立できなくなったらなったで、その時に最適のことを考えればよいのだ。今を生きるには今望むベストを選択するのが良いのだ、と考えるとすっきりした。1LDKであれ2LDKであれ、探せばいろいろあるぞ。ネットでマンションの不動産情報に目を通し始めたのは今年の夏も終わりのころからだった。日野市、八王子市、相模原市、多摩市と前に条件としていた10km圏内をターゲットにした検索を続けていた。


転居日誌(5):今時、陋屋は売れるか?

怒涛の1か月が過ぎて今、新しい住処でようやく落ち着いてブログの続きを書こうかな?というところまで落ち着きが戻ってきました。一昨日ニトリに行って仕事をする机を買ってきました。今朝からそれを組み立て、パソコン、モニターを整備してマイ・スマートルームが再生したのです。再生というのは、これまでもOA機器や何やらを集中して機能的な部屋を作りスマートルームと名付けた部屋を作っていたからです。これができると落ち着くのです。

さて、転居日誌の続きですね。
先立つ資金の源泉は言わずと知れた八王子の住処(もう売却してしまったので表現が今の住処では具合が悪い)である。一体この築40年を過ぎた家は売れるのだろうか?そういえば最近、近所には取り壊された更地や無人の館が目立つ、その一方では建て替えらしい新築の建設が進んでいるところも目に付く。色んな意味でこの団地の住人の平均年齢が上がり、大きな曲がり角に差し掛かっているようなのだ。兎も角、不動産屋さんに相談してみよう、とインターネットで同時に複数の不動産屋さんへ売りたい相談を出してみました。そういう便利なサイトがあるのです。すると1分もたたない間に数社から電話がかかってきました。恐るべし、インターネット。それから数日は携帯が鳴り響きました。即、訪問したいという会社、電話でおおよその状況を聞いて対応してくれる会社、分厚い実績資料を送ってくる会社、様々です。実際に売りに出すのが1年後か2年後かわからないと知れるにつれ、営業マンからの接触は減っていきました。1年半も経つと大半の会社からは電話もなくなりました。その中で几帳面に電話をしてくる会社が1社だけありました。結局今回の大プロジェクトを遂行するために選んだのもその会社になりました。色んなよもやま話があって、どうやらこちらの状況に合わせた移転先や売り方を段々に考えてくれたように感じられたのです。結局会社というよりも人を選んだということかもしれません。でも結果的には大手の会社ではありました。


転居日誌(4):「サ高住」

Y社が経営ている施設の中でも気に入ったのが豊田にある施設だった。豊田は自分が現役時代に過ごした事業所のあった地域で土地勘がある。息子たちが2人共通った幼稚園の所在地だ、幼児の健全な発育にサッカーが最適だと見抜いた当時の園長先生の情熱に惚れて、八王子から通わせた想い出深い幼稚園のあった処、ここなら息子たちも喜んでくれるだろう・・・と。2015年暮れに早速、予約の申込書を送った。待ち行列の後ろについたのだった。44番目だという。それでは絶望的ではないかというと、「そうかもしれませんが皆さん待ちが長いので、多くの方は色んな事情で辞退されることが多いですから、あまり順番のことは気にしなくて良いと思いますよ」というではないか!まぁ、騙されたと思って申し込んで見ましたが、何しろ空きが出ない、しっかり定着していらっしゃるのです。やはり住環境が良いからなのでしょう。何しろ歩いて3分もしない所にイオンモールがオープンしているのです。同じく3分もしない所にこのあたりでは信頼厚い日野市民病院があります。その他駅前の商店街や銀行が全部揃っています。JR豊田駅まで歩いて6~8分でしょう。しかし、待てど暮らせど空きが出たという情報が一向に来ません。これは無理かもしれない、同じ系列の唐木田駅近くの事業所を見学に行きました。ここは新設で素晴らしい環境でした。ここなら全く問題ない。ちょっと高いかな?悩みは深くなりました。何しろ15年分の家賃を前払いしないと入居できないのです。この資金はどうやって捻出したら良いのでしょうか?結局は今の住処を売却して贖うしか年金生活者には術はありません。それまでして現在の住まいを変えたい本当の理由は何なのか再度確認したくなるのでした。


転居日誌(3):サ高住

「サ高住」という括りで展開している事業主、施設は数多い。自分の「サ高住」への期待は何だろう?どういう条件のサ高住が自分の望みなのだろうか?先ずその条件をクリアにしておかないと捜すのにも差し障りが出る。そして絞った結果は、
(1)今の生活スタイルを崩さない距離範囲にある施設であること
(2)最低見守りサービスがあって、風邪など体調の悪い時の食事がオプションで付けられる
(3)健常な状態から徐々に障害を抱え込むに従ってサービスのレベルを変えていける施設であること(つまり終の棲家になってくれないと困る)

(3)の条件を満たすところで約半数絞られる。(2)はどの施設でも当たり前というか、「サ高住」の基本でこれはどこでも問題なくサービスを受けることができる。問題は限られたエリア内にそういう部屋の広さ、サービスを備えた施設があるのだろうかということだった。
(1)の今の生活スタイルをもう少し具体的にすると
・テニス倶楽部に支障なく通える距離(10km圏内)、ということは墓地へも同じ距離で通えるということ。
・NPOの活動は町田が拠点で、そこへの距離もそこそこに大切だ。(定年後の新たな友人が多い)
・八王子を拠点にしている水彩スケッチも継続できる
・付随して、車を使用し続ける、荷物もある程度多くなるのでそこそこの居住面積はほしい
・勿論、経済的には持続可能な範囲のところでないとダメであることは論をまたない
探した結果出てくる「サ高住」は、1人用で17.5~27㎡の広さが殆んどだった。これは私にとってはとてつもなく狭いということだった。その中で抜群に広い39~60㎡ほどの居住空間を提供してくれているYというところが目に止まった。日野市や多摩市に何箇所か展開していた。全国的にも勿論展開していた。物は試しと見学に行ったのは2015年秋だった。考え出してから5,6ヶ月過ぎていた。特別差し迫っているわけでもなかったので、のんびり探せば良いと思っていた。ところが見学に行ってみると、施設は素晴らしいものだった。間取りも1Kから1LDKまで色々選択肢がありいかにも快適そうだった。このくらいの広さがあれば何とか物も収まるかもしれない、と思った。


転居日誌(2):サ高住

元々、2年半前のことですが、後期高齢者を迎えて自分の終の棲家について考え始めていました。一人住まいで自宅を管理し、その上ここで生涯を終える・・・そうする上での障害について考えた。先ず、当面の課題はこの家のメンテナンスである。建売住宅を購入して既に39年を経ていてあちこち痛みが激しい。これを手入れするのに逐一業者との折衝、補修を何回くらい積み重ねることだろう。恐らく4~5回ではきかないだろう。毎夏を伸び盛る雑草との格闘、隙間風の寒さに震える冬対策もある。自分の健康への不安もある。そして得た結論は、そうだ[サービス付き高齢者住宅」(通称、サ高住)への入居を検討しよう、だった。そしてネット検索を通じて色んなサ高住を見て常識を蓄え始めた。


朝井まかて:「眩(くらら)」

江戸末期が舞台だから作者にとっては勝手知ったる世界なのでしょう。「この世は円と線でできている」と物語が始まった。自分は水彩画を習っているので絵に関する一言一言がぐさりとくる。葛飾北斎には娘がいて同じ浮世絵師だったのだろうか?早速ネットで調べてみると、北斎は2男3女をもうけていて、その3女が葛飾応為と称した浮世絵師だったらしい。この応為の生涯を描いた物語だった。小さい時から絵が好きで工房に入り浸りそのまま絵師になったようだ。
3代目堤等琳の門人・南沢等明に嫁したが、父譲りの画才と性格から等明の描いた絵の拙い所を指して笑ったため、離縁されてしまう。出戻った応為は、晩年の北斎と起居を共にし、作画を続け、北斎の制作助手も務めたとされていて彩色を北斎に代わってかなりこなしていたようだ。北斎に私淑していた渓斎英泉との恋心を横糸にして縦糸はもちろん北斎を中心とした画界の流れであろう。長崎から川原慶賀という長崎のオランダ商館お抱えの画家がやってきて西画を依頼されて、西洋の遠近画法に接して大おいに戸惑うところが「先生のお庭番」と通底する。富嶽三十六景に挑み、神奈川沖浪裏を試し刷りした時、そこに居合わせた人たちが息を呑む。
ふだん穏やかで、江戸と気軽に行き来できる神奈川沖なのだ。魚や薪炭を運んで、それを暮らしの生計にしている。けれどいざとなれば海はかくもそびえ立って、襲いかかってくる。並に船ごと飲まれて死ぬか。それとも乗り切れるのかの瀬戸際がここには描かれていた。だが人びとはこれらの船は決して沈まぬと信じるだろう。絵の中心に、富士の山が描かれているからである。己ではどうしようもない境遇にあっても、富士の山はいつも揺るぎなく美しい。
「死んじまうその瞬間まで生き抜こうじゃねぇか。親父どのの呟きが耳朶に響いたような気がした。深刻な声ではない。いつものように肩の力の抜けた、洒落のめすような物言いだ。」(本文より抜粋)


転居日誌(1)

10月17日、1本の電話がこの話のスタートになった。それは予てからコンタクトを取っていた某不動産会社の営業マンMさんからの電話だった。「その後例の話はどうなっていますか?実はあなたの住んでいる団地で土地を求めている人がいていくつか話をお勧めしているのですが、お宅はどうなんでしょうか?」、それに対して「その後例の話は進展はありませんが、自分の気持ちが少し変化しましてね・・・」と答える。「実は、中古マンションを今物色中なんですよ。多摩センター辺りから相模原、八王子、豊田辺りを集中してネットで見ています。」と続ける。Mさん俄然声が元気になって話がはずんだ。それもその筈、Mさんとはもうかれこれ2年半を越えるコンタクトが続いていたからだ。そしてこの話が「瓢箪から駒」よろしく、12月4日の転居に結びつくのだから自分自身すら呆気にとられるというところだ。これからこの話をほぼリアルタイムで記録に残しておこうと思う。